Little doramas of everydayness

いやはや気が付けば25歳になっていた。去年の誕生日は、アクロポリスを望みながら先輩とワインをあけたりと、人生できっとこの先同じようなことは起こらないし、パルテノン神殿を前にしても涙は流れない。タバコが吸えるとかお酒が飲めるとかわかりやすく大人になるを感じる機会はそうそうない。大人の定義はわからないけれど、自分が子供であることを自覚している人という先輩の定義が割としっくりくる。

メンドリジオから帰ってきて、同期とスイス組の卒業を見送った後、自分の論文やらゼミの調査やら身も入らず過ごしている。パソコンに向かったり、本を読んだり、映画を見たり、たまに車で田舎にでかけたり外では桜が咲いているのに、夏のぬるい夕方の感じがなんとなく延々と身体に流れている。焦りとも違う何かに追われている感じがする。論文の提出に追われているだけかも。

論文を書いていると、自分の頭の悪さに飽き飽きする。どう考えても、参考論文のような文章を書けるとは思えない。教授は、新しい建築のみかた、ものさしを共有することが論文の意味と言っていた。手順を追っていけば、誰しもが同じように建築を見ることができる構造をつくることとも言っていた。これはもちろん人によるだろうし、自分が教授の意図を汲み取れているかも怪しい。でもなんとなく論文の発表とか、既往研究とかを読んでいるうちに少しだけ善し悪しがわかってきたような気がする。それに、自分の論文が何か足りないこともわかってくる。五分間の発表の中でも、目的と背景から始まって、研究方法の概要、それをもとに実例を幾つか、ほかの事例も含めた一般化の絵だの表だの、最後には考察、自分の言葉での位置づけがきれいに構造化されているものはわかりやすいし、何か抜けていれば聞き手に何らかの補完が必要になる。論文のテーマにもよるだろうけれど。最後の考察で、「調査の結果このようになりました」というのは、考察になっていないのは明らかで、そうならないようにしないとと思う。自分で言葉を作って当たり前のことをそれっぽく語ることも違うことはわかる。いくつかの分析の軸があるとして、その軸単体で見れば当然のようなことも軸の組み合わせで新しい論ができるとすれば、その軸があと一つ足りないような気がする。その軸が見つかった時、本研究の位置付けができる気がする。机の上で考えれることは十分考えた気がするし、とりあえず手を動かすことが何よりの近道なのも知っている。

学生最後の年、何をしようか、先輩には建築に限らずたくさんインプットするのが大事と言われました。抱負なんてものもきっとすぐ忘れてしまうだろうし、焦る必要もないと思っている。毎年のごとく、目の前のことをしっかり取り組んで生きていきたいと思います。でもいつでも周りが見れるように、どうぞ良しなに。